国友製作所の部下5,6人と共に事務所設立を決意した一清は、倒産したその日の晩に井口博士を訪ね、博士のポンプを引き継ぐことを願い出た。井口博士は全面的支援を約束した。一清は独立して工場を持つほどの資金がなかったので、設計と販売のみを行い、製作は外注することを計画した。早速、銀座の工業雑誌社の二階(東京都京橋区東鍋町)を借り荏原製作所の前身である「ゐのくち式機械事務所」を、井口博士を主幹に迎え、一清は所長となって構えた。一清が30歳の時であった。
井口博士は現職の大学教授であったため、営利企業の代表に就くことができず名義を主幹にしたが、荏原製作所になった後も、井口博士を顧問として、一清は専務取締役として就任し、井口博士在世中はみずから社長に就任しようとしなかった。
事務所は工場も資金なく、頭を使って技術を売り物にするしかなかったので、注文の設計以外に井口博士の理論に基づく研究も行い、数は少なくともいいポンプを作ることに精魂を傾けた。その結果製品は産業界に認知されるようになり、注文は次第に増えていった。事務所設立から3年目で、ついに自己資金で最初の工場を日暮里に持った。工場設立当初は、従業員20名ほどの小さな町工場で、整備された機械設備を導入する資金はなく、備える事ができたのは小型機械設備わずか9台で、クレーンや組立工場はなかった。大型ポンプの機械加工から組立まで行えないため、工場でできる限り切削をし、その後現場に持ち込み、組立や試験はすべて現場で行うしかなかった。さらに工場の床は土間のままで雨漏りが激しく、大雨が降るとたちまちぬかるみと化した。このような厳しい事業環境ではあったが、仕事に対する熱意と創意工夫で乗り越えていった。当時受注・設計・製作した代表的なポンプは、1915年(大正4年)に受注の三河島汚水処理現場へ設置した口径760ミリの渦巻ポンプや、1916年(大正5年)受注の浅草田町排水場へ設置した口径1140ミリの渦巻ポンプが挙げられる。
なお、浅草田町のポンプは1963年(昭和38年)まで40年間以上活躍したのちに撤去された。撤去されたポンプの1台は荏原製作所本社エントランスロビーに現在も据えられている。
工場経営について、当時の町工場は親方を中心とする徒弟制度が当たり前だったが、一清は徒弟制度を廃し徹底した技術第一主義を採用したので、社員は黙々とポンプの設計・製作に没頭してくれたと語っている。