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1910


二度の就職と倒産

大学を卒業した一清は、いつか経営者になって自らの技術で製品を作り、自ら売りたいという志を持ちつつ、鈴木鉄工所という小さな機械工場の会社に就職した。就職先として多くの選択肢を持っていたにもかかわらず、あえて小さな鈴木鉄工所に就職した理由は、技師長として入社できたことで多くの経験を積ませてもらえること、また、鈴木藤三郎というユニークな人物が経営する会社だったことだ。当時、鈴木藤三郎は実業家・発明家・政治家として知られており、「日本近代製糖業の父」と言われていた。さらに、二宮金次郎の報徳精神を信奉していることでも有名だった。一清は、鈴木から教わった報徳精神に大変感銘を受け、一清の人生観、経営観に大きな影響を与えた。一清は技師長として、鈴木のもとで大きな設備設計や据付工事などを経験した。しかし5年後、事故や不運が相次ぎ、1910年に鈴木鉄工所は倒産する。

一清は、恩師である井口博士がいる東京帝国大学へ近況報告に行くと、国友機械製作所への就職を薦められた。国友製作所は井口博士が渦巻ポンプに関する理論を事業化するため、その製造を委託していた小さな工作機械メーカーである。前述のとおり、井口博士の渦巻ポンプの理論は世界的に高く評価されていた。それを事業化することを手伝うことは教え子として大変光栄なことと考え、一清は入社を決意する。
しかし、2年後の1912年(大正元年)11月3日に再び国友製作所は倒産してしまう。過剰な設備投資が裏目に出た結果だった。当時、国友製作所は機械設備が約50台、従業員は100名弱だった。
かねてから志していた経営者への思い、また世界的に認められた渦巻ポンプの事業を井口博士の愛弟子である一清自身が存続させたいという思いから、国友製作所の部下5-6人と共に事務所設立を決意する。